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言霊  2004.12.16

 ヒトは言葉で考えます。
 言葉で理解し、言葉で伝え、言葉で分かり合おうとします。

 けれど、人と人がつながるのは、言葉じゃありません。
 感情、情動でつながります。

 それは、言葉による人同士のつながりは学習から来るものであるのに対して、感情を介した繋がりは生得のものであるらしいということによります。

 だから、ヒトは、人から何とかして感情を読み取ろうとします。
 表情から、動きから、言葉の抑揚から。
 同じ言葉を発したとしても、決して同じように感じるわけじゃありません。
 その人から発せられる空気、雰囲気に、言葉は乗っかってくるんです。

  ▽ △ ▽

 ところが、悲しいことに、言葉を受け取るときは「分かる」ことと「感じる」ことの両方で受け止めるというのに、一旦受け止めちゃうと、「分かった」と思ってしまうことです。
 そう、自分の中に取り込んだとたん、全部が言葉に置き換えられたことに、なってしまうんです。
 「分かった」ってこと自体、そう感じたからいえることなのにね。

 この世界は、たった1つしかありませんが、それを見る人の目は、この世界に住む人間の数だけありますよね。
 また、当然、感じ方受け止め方も、人の数だけありますから、本当は1つしかないはずのこの世界も、人それぞれ、時には少し、また、時には大きく異なったものとして、各人の目に写ります。

 そう、この世界は、信じたとおりに目に映るんです。
 枯れ尾花も、そう信じてみれば幽霊に見えるんです。

 そうして、幾つもの「わかった」を組み合わせて、心の中に、自分の信じる世界を作り上げていきます。
 自分の信じる世界というのは、「自分がそうだと思っている世界」とか、「自分なりに捉えてみた世界」くらいの意味で捉えていただければいいかと思います。

 外界に対する概念と言うことになりますね。

  ▽ △ ▽

 ヒトは、自分のうちで作り上げた、自分の信じる、外界に対する概念に当てはめながら、考え、行動します。
 当てはまらないときは、無理やりこじつけたりすらします。

 そのため、身の回りにあるありとあらゆるものを、言葉という、抽象化された概念に置き換えてしまがちです。
 けれども、物事は、それが言葉に置き換えられた瞬間、不完全なコピーに成り果ててしまいます。全てを含むありのままの状態から、必要なものだけが取り出されてしまい、結果、「事実」は、一部分だけが切り取られた「虚構」つまり偽者になってしまうのです。
 言葉に置き換えられた瞬間、事実は常に、真実ではなくなるんです。

 なにしろ、言葉には、抽象化した事実を表現する力だけでなく、「嘘をつかせる」力すら備わっているんですから。

 人が、言葉だけに基づいて行動している限り、この、虚構の世界から逃れることはできません。
 虚構である以上、行動は常に適切であるとはかぎりません。
 いや、適切でないというより、もし適切でなかったとしても、なかなか気づけないということです。

 「思い込み」ってやつですね。

  ▽ △ ▽

 この、思い込み、なかなか気づけないだけに、かなり手ごわいものになります。
 人によって起こされる問題やトラブルは、ほとんどこの思い込みから来るんじゃないかと思えるくらいです。

 だって、そうでしょう?
 言い争いも戦争も、好きも嫌いも、みいんな、思い込みから来ることが多々あるじゃないですか。
 自分の思い込みどおりに、相手を沿わせようとして、うまくいかないから、紛争が起こる。

 自分の事だってそうです。
 こうじゃなきゃヤダとか、ああじゃなきゃいけないとか、これは駄目あれが良いと決め付け思い込むから、現実とのギャップに苦しむことになっちゃいます。

 そうやってみんなが自分の思い込みにこだわり、固執して我を張ると、いつも、弱いもの、優しいものが割を食います。
 それが、ときには国家だったり、ときには子供だったり、あるいは自分自身であることすらあるのです。

 ▽ △ ▽

 言葉はいつも「思い込み」という、不確かで魔法にも似た力を秘めています。
 ヒトはいつも、この思い込みの魔力に囚われ、現実を見誤ります。
 いわゆる「言霊の呪力」は、本当にあるのです。

 じゃあ、どうやったらそこから逃れられるんでしょう。

 言葉は万能じゃありません。
 言葉の限界を全身で感じ、言葉だけに頼らず、五感、いやそれ以上の感覚を総動員して感じ取ることだけが、言霊の呪縛を破る方法なのかもしれません。