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良き輪  2004.11.2

 怒りに対し、怒りもて報いたところで、それは新たなる怒りを生むのみです。
 憎しみであれば、なおのこと同じ。
 これを、悪循環といいますね。

 私は、そこに気づいていながら、たびたび過ちを繰り返しています。

 でもそれは、私もまた、人であるから故なのかもしれません。
 (とはいえ、自己弁護に逃げるつもりはありませんよ。)

   ▽  △  ▽

 人は、弱い生き物です。

 弱いからこそ、支えあって生きていきます。
 支えあうとはいえ、皆で等しく支えあえるものではありません。相応の関係に見合った力で、近ければ近いだけ、強く、大きく、寄り添い支えあうものだと思います。

 より近い人とは、より親密に。

 近ければ近いほど、時間も、労力も、より大きく割き割り当てられるものだと、私は思います。そして、近ければ近いほど、思いも、言葉も、より強くなる分、より本音に近いものが現れてくるのだとも、思います。
 ここは、単なるやさしい言葉だけでは、成り立たない領域だと、私は思っています。

 だからこそ、近しい人への言葉は、勢い厳しいものとなることもあるでしょう。それゆえに、言葉は、直接相手に届けられなければならない。そして、常に、厳しい言葉が交わせるだけの親密さと信頼関係を作っていくことも大切でしょう。
 そしてこの親密さや信頼関係は、思いや考えを伝え合う時間と労力をたくさん必要とすると言う点で、ひとつのサイクルを形成します。

 この良きサイクルをうまく回して行こうと「互いが」心がけ続けることで、本当の意味の「支えあい」が生まれるのでしょう。

   ▽  △  ▽

 このような輪を、さまざまな相手との関係の親密さに応じた大小の輪(サイクル)として、ひとつひとつ大切に扱い、まわしてゆくことで、ひとは安定したその人なりの「ありか」を見出してゆくのだと、私は信じています。

   ▽  △  ▽

 だから、本音の語られることが、常に無言の内に制限されるような状態や、本来オープンであっていいはずの事が秘密とされるような状態などの、そんな、まっすぐな関係を妨げるような状態など、あってはならないでしょう。
 ましてや、そのことすら、はっきり示されず、暗示のうちにそのような状態に置かれるなど、あってはならないことです。

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 繰り返しになりますが、人と人が支えあうということは、本音でぶつかり合うことでのみ成し遂げられることであり、それは、ときに厳しさすら要求されます。そんな激しい世界が成り立つためには、立ちがたい状況においてすら、可能な限り相手の立場にたって物を考え、述べ、伝えるという、

 「思いやり」

 を世界の支柱にしてこそ、やっと成り立つものだと、私は思います。
 思いやりに欠ける、表面的なやさしさと思慮、遠慮だけで成り立つ世界では、本当の信頼関係や協調関係は作り得ません。

   ▽  △  ▽

 さて、人が、このような関係を、人生においていくつ作り上げることができるのでしょうか。

 ささやかで小さな輪ならば、いくつか持ちえるかもしれません。また、上手にいくつかを維持していくことは、とても大切なことだと思っています。

 でも、人生を通して作り上げていく大きな輪は、きっと、1つか、2つ・・

 もし、それ以上を持つことができれば、その人はとても素晴らしい人生を手に入れていることでしょう。


 私は、そんな風に、思います。