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 2005年02月

ひとりぼっち 2005.2.28[Mon]
   
  今日も、ひとりぼっちだ。

でも、今日も、何人かと言葉を交わした。
ちょっとむっとして、ちょっとすねた。

それからちょびっと苦笑い。

ああ、ひとりじゃない。
だから、僕は今日も、生きている。
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おなか 2005.2.27[Sun]
   
   おなかが空いた。
 何を食べたら、満たされるかなぁ。

 胸までからっぽ。
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本音 2005.2.24[Thu]
   
  だけどホントは、私の思いを分かって欲しいのだ。
私の思いが伝わって欲しいのだ。

伝わらない。

でも、おかげで、こうやって、ひとのことを少しでも分かるようになろう、感じ取ろう、大切にしようと考えつづけ、ここまでこれた。

(実際出来てるかどうかは別として)気付こうと思わせてもらえたということは・・・

恵まれているだろうか。
それとも、不遇なのだろうか。

きっと、僕の受け取り方次第なんだね。
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言われたい 2005.2.23[Wed]
   
   ヒトはしゃべることが出来る生き物だよね。
 言葉をしゃべる生き物だよね。

 でもって、言葉は、思い、感情や、考えを自分の中で整理し、自分が納得したり相手に伝えたりするためにあるんだよね。

 で、特段の理由がない限り、ほとんどのひとは、しゃべれるよね。言葉を。

 だからね、僕は、人間ってのは皆、自分の考えを相手に伝えるためにしゃべれるものだと、思ってたのです。

 だけどね、ふと思ったの。
 いま、もしかして・・と思ったの。

 しゃべれる人の全てが、そうやって思ってることをしゃべれるわけではないんじゃないかってね。

  ☆  ☆  ☆

 相手に自分の考えや思いを伝えるためには、まず自分の中でその内容を整理しなきゃいけないよね。ちゃんと言葉として。だけど、これって実は、皆が皆出来るものではないのかなと、思い始めたの。

 言葉に出来ない、こみ上げてくる喜びや、漠然とした不安、言いようもない悲しみ、そんな、奥底から出てくる感情は、とても言葉にするのは難しいだろうね。だけど、そんなんだけじゃなくて、今の自分の希望やお願いが、心の中にはあるのに、言葉にしていえない人が、居るんじゃないかと、思い始めたのです。

 いえないのは、希望や願望がないのではなくて、それを整理して的確な言葉に代えて行くことが苦手のかな? なんて、今ちょうど、考えているところです。

  ☆  ☆  ☆

 そういう人というのは、こちらから一生懸命何かを伝えようとしても、なかなか受け取れないのかもしれないなあ。だって、こちらが何を伝えようとしているのか、理解するために、頭の中で整理するまでにもたいそう時間がかかるだろうし、いざ理解できたとしても、それからまたさらに、それを受けて自分の考えを返すのにも、また時間がかかるだろうから。

 そりゃそうだよね。
 自分の思いがそんなに簡単に伝わるわけがないんだから。
 逆の立場になって考えてみて、やっとわかった。だって、僕、一度言われただけで、その人の言ってることが全部分かるなんて、そんなことできないもの。

 でもって、「分かる」速さは、人によってかなり違うだろうね。
 だから、「いえるまで」の速さも、人によってずいぶん違うだろう。
 
 言われてすぐにぽーんと返せる人もいるだろうし、数分かかって返す人も居る。人によっては、翌日でないと返せないかもしれない。
 すねたり怒ったり、喧嘩したりしたら、1週間後かもしれない。

 そもそも、返すところまでたどりつけないかもしれないんだ。

  ☆  ☆  ☆

 ひとのことを「分かる」というのはすごく大変だ。
 それを僕は、分かってるつもりだったけど、分かってなかった。

 僕を物差しにして、人を計っていたのかもしれない。
 正しくは、僕が理想とする物差しでね。

 すぐに返ってくると思ってたのかもしれない。
 必ず返ってくると思っていたのかもしれない。

  ☆  ☆  ☆

 今自分がどうしていきたいのか、そばに居る人にどうしてもらいたいのか、身の回りがどんな環境になってほしいのかみたいな、自分自身との関わりとか、人と人の関わり、自分と自分の外との関わりといった、そういうものは、きっと、本人の世界観に基づくんだ。
 世界観を、言葉だけで作り上げているのなら、説明するのは簡単だ。

 だけど、印象や雰囲気、イメージとしてとらえているものも山ほどあって、ただ自分と向き合うだけならば、それでもほとんどの場合問題はない。むしろ、下手に言葉に置き換えちゃうと、元になっているものとずれが出ちゃって問題が出ることさえあるだろう。

 例えば、「りんご」と言って、赤くて丸くて甘くてすっぱくておいしいというイメージが沸かないと、「りんご」のままじゃ、りんごとの関係が作れないもんね。
 食べようとか、見て楽しもうとかね。

 イメージが違ってると、関係の作り方もかわるだろうしさ。

 「りんご」=すっぱくておいしくない。なイメージの人ならば、きっと食べないだろうからね。

 でも、人にそれを伝えるときは、結局言葉に置き換えないと仕方がない。そこで、伝えるのが上手な人と下手な人が出来ちゃう。伝えるのが下手な人は、やっぱり、受け取るのも上手じゃないかもしれないし、受け取るのは上手なのに、それを「わかった」って返すのが下手で、せっかく相手のことは分かったのに、自分のことは分かってもらえないかもしれない。

 問題は、相手側から見たときに、受け取るのが下手なのか、ちゃんと受け取って理解しているのに、理解したということを伝えるのが経たなのかが、言葉上だけでは分からないということだ。

 言葉だけで物事を進めるのは、とても怖い事だと思い始めた。
 だけど、コミュニケーションの手段として、言葉にあまり頼ることができないというのも、とても大変なことだ・・

  ☆  ☆  ☆

 やっぱり、忍耐なのかなあ。 
 自分の考えは、そう簡単に伝わらない。だけど、一生懸命がんばったらいつか伝わるというのが、僕の信念のひとつだった。

 だけど、それに加えて、相手の考えだって、きっとそう簡単に僕に伝わらないかもしれなくて、それは僕の力が足りないからかもしれないんだから、こっちが伝たいという気持ちだけをがむしゃらに剥き出しにするんじゃなくて、先に、相手がどう思い、感じ、それを伝えようとしているのかまで考えなきゃいけないだろうし、できれば、もしかしたら伝えられずに抱えつづけているものがあるかもしれないと、そんなことまで心の片隅に、置いておかなければいけないのかもしれないなあと・・

 本当に思い悩んでいるのでした。

 自分の思いを伝えるときには、我がでるわけだけど、相手の思いを受け止めるときは、我をひっこめなければいけないのだろうなあ。

 実はまだよくわかんない。

 少なくとも、相手の思いを受け止めるときに、その労力を相手だけに負わせちゃいけないとだけは、はっきり、今、分かった。

  ☆  ☆  ☆

 相手の思いを、聞ける人、受け止められる人になりたいなあ。

 そのためには、受け入れがたい出来事や言葉があっても、簡単にへそ曲げたり怒ったりせず、その向こう側にあるゆっくりときほぐして行ける、そんな人間になりたいなあ。

 相手の思いを、聞ける人、受け止められる人になりたいなあ。
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甘ったれてみる 2005.2.18[Fri]
   
 

 やさしさって何だろう。
 思いやりって何だろう。

 それってきっと、相手の言葉に耳を傾けること。
 それってきっと、相手の思いをしっかり感じ取ること。

 じゃあ大切にするってどういうことだろう。
 それは、相手がそのとき最も望んでいることを「わかって」あげようとすることだと思う。
 (満たしてあげるって事じゃないとは思うよ。だってそんなのいつでもできるとは限らないから。)

 相手の望むたったひとつすら理解できないままに、他のものを渡してあげようとしても、きっとそれは自己満足。

 偽善とも欺瞞とも言わないけれど、それはどこか的外れだ。

 喉が渇いている人にパンをいくら与えても、決して渇きは癒されないようにね。

 え? 難しいって?
 そうかもしれないね。僕も、わかってあげることすら難しいことだと思うからさ。
 
 だけど、わかんなかったら、せめて聞いて見ようよ。
 聞いてみて、自分でもわかんないって言うのなら、今度は一緒に考えてみようよ。

 そうしていることが、もう、大事にしているってことだと思うからさ。わかってあげようとしてるんだからさ。

  ▽  △  ▽

 そうだね、たとえば・・

 相手が親友であれば、悩み抱えているときなんかには、ほんのひとときだけでいい、そっちを向いて、その人のためだけの時間を作ってみるとか。
 相手が子供であれば、一緒に居られる日には、最低一度でもいいから抱きしめてあげてみるなんてのもあるね。

 そして・・
 相手が恋人や配偶者であれば、そういうのを、互いに、全部。
 そしたら、お互いに、「愛してるよ」って言い続けられるように思う。
 間違っても、時間割くのを惜しんだり、抱きしめられるのすら拒否したりしちゃいけないよ。(笑)

 そういうのが、大切にしてあげようとしてるってことだと思うから。

  ▽  △  ▽

 僕は、とても寂しがり屋だから、日に一度は抱きしめてもらいたいな。
 
 それだけもらえたら、きっと、命でも差し出せる。
 逆に、拒否されたら、生きていられないかも。


 ああ、今日はたまらなく寂しいなあ。
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余裕ある? 2005.2.17[Thu]
   
   久しぶりに遅刻しそうになりました。寝坊してしまったのです。
 幸い私は職場と自宅の距離がそれほどなく、通勤には自転車を利用しているという恵まれた?環境にあります。とはいえ、住んでいる街が全体的に平坦だということもあって、自転車で3kmは走る環境ですので、雨降りなどは、かなり大変ではあるのですが。
(信じられないかもしれませんが、この間に、坂らしい坂はまったくありません)

 職場についたのはおよそ10分前。まあ、遅刻は十分免れそうです。安心してエレベーターを待っていたのですが・・

 職場のエレベーターは2台あります。
 1台のカゴが降りてきましたが、地下へ降りるサインが出ています。じきもう一台が来ますから、待っている人は皆、乗らずに待つことにしました。

 そこに慌てて駆け込む遅刻寸前常習者(笑)がいました。
 この方、いつもぎりぎりにこられることで、有名なんですよ。なんの間違いかこの人がいつもより早めに来てたりすると、「おわあ。今日俺遅刻寸前かー!」と居合わせた人が思わず声をあげちゃうくらいなんですから。(とはいえ、そんなことは1年に1度あるかないかですが)
 そんなわけで、「ああ・・いくらなんでもぎりぎりすぎるな」と反省しつつも、「なぜ下行きのエレベータに乗るの?」とも思わず、何気なくエレベータに乗り込むのを見送りました。

 あれ?

 そうこうしているうちに、もう1台のエレベータが、追い抜いて地下へと降りてしまって・・・ たった一人だけを乗せた、下に降りるはずのエレベータは皆の予想に反して登って行きました。ため息をつく皆の前に、地下から戻ってきたもう1台のエレベータには、大量の荷物が積まれていたのでした。(一同怒)

 遅刻寸前魔の人は、エレベータの挙動になれていたのでしょうね。
 ありがちな話です。

 そんなわけで、今日はジコチューの話です。(笑)

  ☆  ☆  ☆

 小さな子供は、人だけでなく、動物や物にまで、意識や感情があると思い込む癖があります。これを、児童心理の研究で有名なピアジェという人は「アニミズム」という名前を付けました。
 アニミズムというと、学生時代に社会科の授業(今の小学校では生活科なのかな)で聞いた人も居るかもしれませんね。元々は、万物には霊魂(アニマ)が宿り、これによって世界が宿っているという、精霊崇拝や霊魂信仰を指す、文化人類学などで使われる言葉です。ここから、幼児期に、命がないものにまで、あたかも命があり、意志があるかのように、擬人化して考える傾向に「アニミズム」と言う名前を付けたのでしょう。
 この傾向は、幼児は、まだ社会性が未発達で、物事(世の中の出来事)を客観的に見ることが出来ないために、自分の立場から物事を見てしまいます。これを、幼児の自己中心性といいます。この自己中心性から、自分の周りにある物体がどれも、自分と同じであり、意識や感情を持っていると思い込んでしまうのだそうです。

 しかし、この「幼児の自己中心性」。世間一般で言うところの、大人の「ジコチュー」とは、根本的に違ってますよね。ある意味では、全く逆と言っていいかもしれません。だって、ジコチューといえば、自分以外の人のことを考えず、自分にとって都合のよいように物事を進めようとする姿勢のことをいいますからね。
 一方この幼児の自己中心性は、客観性が備わってないから、とりあえず、なにもかも自分と「同じ」だと思っちゃえーという、とても乱暴な方法ではありますが、自分以外を認めない「ジコチュー」とは正反対を行く方法だと思いませんか?
 実際、ぬいぐるみをたたいたり踏んづけたりすると「いたかった?」ってなでる子供や、ブロンズ像に挨拶する子供なんてのを、たまーに見かけたりします。ね、「自己中」だけど「ジコチュー」じゃないでしょ?

 なかなかこれって、素敵なことだと思いませんか?

 社会性が備わってない、つまり、自分以外のものについてが正しく認識できないはずなのに、じゃあ「他なんて居ない」ことにしちゃうんじゃなくて、とりあえずわかんないから「全部ある」ことにしちゃうように、最初から?出来てるんですから。

 以前日記で紹介した「笑顔反射」と同じく、学習せずとも人間に最初から備わっているのでしょうね。

  ☆  ☆  ☆

 ただ、いくら素敵だといっても、この、自分の周囲の物事を客観的に捉えることが出来ないままでは、論理性に欠けたままになってしまい、正しい世界観を持つ妨げになってしまいます。ある程度は、客観的かつ多面的な視点で見ることができないと、自分以外のものにも、自分と同じように意思や感情を持つ存在があることや、そのそれぞれが異なる個性をもっており、必ずしも自分と同じように考えるとは限らないなどといったことを、うまく体得することができなくなってしまいます。
 つまり、他者の存在の真の理解(自分以外にも独立した人格があることを認めること)にたどり着けなくなってしまうということです。これができて初めて、他者を本当に尊重することができるようになると、私は思います。

 とはいえ、主に学力と言う統一された価値観、尺度によって幼い時期の人間が測られる今の世の中では、逆にこの、論理性や記憶などの、IQ的尺度ばかりが評価されてしまい、結果、せっかく生まれながらに身に付けている社会性の卵すら腐らせてしまいかねない状況のようにも思えます。
 数値化された世界で競争することを第一にされたのでは、他者は優劣の比較対象でしかなくなりますから、他者の人格の尊重なんて、身に付けるどころか意識する余裕すらありませんからね。

 余裕と言えば、冒頭に出てきた遅刻ギリギリの人。この人もまた、まさに「余裕」のない人ですよね。

 時間の余裕がなくなると、他の人を省みる心の余裕もなくなる。
 金銭的余裕にしても同じかもしれません。食うに困って飢えてる状態では、なかなか人のことを思いやる心の余裕も出にくいでしょう。まあ、全く出ないとは言いませんが、少なくとも、そこに至るまでのその人の人格形成に大きく左右されるでしょうね。

 結局、大人のジコチューというのは、ギスギスした余裕のなさから来るものなのでしょうねえ。

 やれやれ。
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たいせつなひと 2005.2.14[Mon]
   
   バレンタインデーですね。

 街中では、クリスマスほどではないですけれど、あちこちがバレンタインムード(とでも言ったらいいのかな)でいっぱいです。尤も、私はといえば、おこぼれにすらありつけないほど縁遠いイベントになってしまったのですが。

 実は、このバレンタインデーの起源については、2年前に日記ネタとして使わせていただいています。
 とはいっても、前のサイトのことなので、読めないんですが。(苦笑)

 せっかくなので、ほんの一部だけ抜粋しちゃいましょう。

  * *

 どうももともと、バレンタインデーというのは、ローマで、ルペルクスという豊穣の神のために行われていた、「ルペルカーリア」という祭がその起源のようです。

 このお祭りでは、前日の2月14日の夕方に、若い未婚女性たちの名前の書いてある紙を箱に入れて、翌日祭が始まったら男性たちがその紙を引いて、書いてある名前の女性とと祭の間付き合うというものだったそうです。
 (もちろん、祭りの間にお互いが気に入ったら、そのままお付き合いは継続します)

 つまり、一言で言えば、男女がくじ引きして(最長)一年間の交際相手を決めるという、まあなんともふざけた?風習が元らしいのです。

 (あ、ということは、バレンタインデーって、もともと15日だったのかぁ)

  * *

 この後さらに、バレンティヌス司教の話へとつながっていくのですが、いくらなんでも同じネタをコピペで終了ではひどすぎるのでこの辺で割愛です。

 ところで、お隣韓国では、面白い習慣があるらしいですね。
 バレンタインデーの翌月にホワイトデーがあるのは日本と同じ?ですが、さらにその翌月、ブラックデーというものがあるそうなんです。
 ブラックとはいっても、決してチョコをもらえなかった男の子やお返しをもらえなかった女の子が復讐を果たすとかいうブラックジョークが許されるわけでもなんでもなくて(当然ですね)、なんでも独り者同士があつまり、黒尽くめで黒いジャージャー麺を食べるんだとか・・・
 そっちの方がよっぽど冗談じみてますが、一体どこまでが本当なのやらですね。

  ▽  △  ▽

 与太話はさておき、バレンタインデーというと、女性から男性に、普段心のうちに秘めていた思いのたけをチョコに載せて、堂々とぶつけられる素敵な日とされているわけです。

 思いのたけとか書いたら、憎い場合は毒でも盛って贈ることも許されちゃいそうですね。
 って・・そうじゃなくて。

 自分以外の誰かに、好意や、愛情、大切に思う気持ちを抱くって、とても素敵なことですよね。だけど、想いは、抱いているだけでは、なかなか伝わりません。そりゃ、すぐ近くに居れば、日常の何気ない仕草や行動から読み取れるものは沢山ありますから、決して言葉ばかりが大事とはいいません。
 けれどね、やっぱり、一番ストレートに伝えられる方法が言葉なのも事実ですよね。

 だから、贈り物という行動に、大切だという気持ちを言葉にして載せて送るんですよね。
 人間には多彩な表現の力が与えられていて、この力を発揮することではじめて、内にある心の存在を相手に感じさせることが出来るんだと思うんです。

 心は人の内にあって見えないと思われがちですが、逆に、情緒豊かな表現で見せて行くことこそ心の本領、真価なんだと僕は思っています。だから同時に、自分が見せるだけではなくて、他の人が見せてくれたものも、豊かに感じ取り自分の中に吸収する力も同じく、心の大事な働きだと思います。

 こんなこと言うと、まるで唯物史観ぽいといわれそうですが、そうじゃありません。
 
 心とは、見せること、伝えることによって豊かになり、同時に周囲の人との関係も豊かなものになって行くもの。そして、心とは人の中にあるんじゃなくて、人の中から湧き出して人と人をつなぐ掛け橋であって、人と人の間に流れているものなんだと、僕は信じているのです。

 感じ取り、表現する人の働き。それが、こころ。

 だから、秘めず恐れず表現し、受け取る側も、大切に真剣に受け取ってもらいたいなって、思います。
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世迷言 2005.2.12[Sat]
   
   大道の真中を胸を張って歩ける人になりたい。

 大道の真中の往来は人多く、進むはおろか立ち止まる事すらままならぬ事も、少なからずあるかもしれない。
 けれど、光も差さぬ裏露地の、さらに奥深くを歩むのでは、歩みは容易いかもしれないが、行く先見渡し難く、くねる細い道を助け請う人も見出せずただ一人行くしかない。

 だから、大勢の人前でもなんら恥じることなく、堂々と歩き、道行く人々と助け合いながら進んで行きたい。

  ▽ △ ▽

 共に歩む人にも、私と同じく、進む道があり、行く先を案じて不安に思う心がある。そう思えば、誰かが私の足を踏み行くことがあっても、それが足運びに迷い誤ってのことであれば、何の腹が立つこともあろうか。
 ただ、踏まれたものの痛みに思いめぐらず、自分だけでなく相手にも道も心もあることに想いが至らぬ者がいるから、途方も無く悲しいのだ。

 誰にでも博愛を振りまけとまでは言わないが、せめて、手を取り肩を並べて共に歩く仲間、同胞には、そういう気持ちを抱いてほしいではないか。
 それが大事というものだと思うんだが。どうなんだろう。
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嘘つきになること 2005.2.11[Fri]
   
  それは、こっそり相手から幸福を削り自らの懐へ収めること。苦難と不幸の道を自ら選ぶこと。
削り取った幸福は、決して自分の幸せにはならない。

頭が割れる。いや割れた。
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2年前の再来 2005.2.1[Tue]
   
   怖い。

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