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 2005年03月

捏造された記憶 2005.3.30[Wed]
   
   幼いときの記憶というのは、現実の出来事と、夢や本、テレビなどの虚構の情報がごっちゃになり、結構信用ならないものらしい。(だから、以降の記述は多分にフィクションを含んでいます。ご注意ください)

  ▽  △  ▽

  ▽  △  ▽

 結局、僕の心に流れているのは、途方もないさびしさであり、このさびしさは結局のところ、僕の心が、突き詰めると人間なんて信用ならないんだという人間不信から来ているのではないかと思えてならない。
 どうせ私なんて受け入れてもらえるわけがないんだ。受け止め、支えてもらえるわけないんだと、自分で見えない障壁を築き、勝手に一人で殻に閉じこもっている状態にいるんだろう。

  ▽  △  ▽

 まだ小学校にも満たないくらい幼い頃、風邪を引き高熱を出して寝込んだときに見た夢を未だに覚えている。

 真っ暗で何も見えないところに、僕は浮かんでいる。しかし全く宙に浮かんでいるわけではなく、完全に透明な、半球の大きなドームの中に僕は納まっており、その中で呆然と周囲を見回している。
 気が付くと、光もなく真っ暗なのに、この半球はものすごい速さでどこかに向かって突き進んでいるのに気付いた。進行方向を見ても何も見えないし、音もしない。それなのにこの半球は、ごうごうと音なき音を立てつつ、恐ろしいほどの速さで突き進んでいるのだ。
 次第に恐ろしくなり、このドームから抜け出したい衝動に駆られて、自分自身に目を向けた。すると、実は自分の体などなく、目だけ、いや身体などなく単に視覚だけがドームの中に浮かんでいる事に気付いた。やはり自分は浮かんでいたのだ。
 どんどん恐ろしさが増していく中で、自分が納まっているドームが次第に外側からぎりぎりと圧力を加えられていくのが感じられた。
 自分の外側にあるのにどうしてそう思ったのかはわからないが、確実に半球は強く締め付けられている。そのあまりもの強さに苦しくなり身をよじった瞬間に目がさめた。
 果たして、締め付けられていたのは僕の頭であり、激しい頭痛と気持ち悪さで目がさめたのだった。

 僕はそのとき、まさしく脳だけの存在だった。

  ▽  △  ▽

 どうしてそのときの記憶が心に残っているかというと、それ以来、僕という存在は、この頭蓋骨という半球の中に閉じ込められて宙に浮く、囚われの意識なのだというイメージで固定されたからだ。
 だから僕は、この世界の中で活動する一個の自由な存在などではなく、わずか直径数十センチの頭蓋に閉じ込められた虜囚でしかないと、心のどこかでずっと思っているのである。 

  ▽  △  ▽

 また、僕が5〜6歳ごろに、こんなことを考えたことも覚えている。

 僕は、建替えられたばかりの新しい我が家(今はもう築数十年である)の、真新しい天井板の木目の流れをじっと見ながら、ごろりと畳の床に転がっている。東側に大きな窓を持つこの部屋は明るい日が差し込んでおり、暖かく心地よい。

 僕はそのまま天井を見つめながら、「僕はどうしてここに居るんだろう。」とポツリとつぶやく。
 僕は母から生まれたというが、本当は一体どこから来て、どこに行くのだろう。
 僕は父母と弟、あとはごくわずかの隣人のことしか知らないが、この世界には数多くの人々が居るらしい。どうしてそれほど沢山の人がこの世にいるのだろう。皆どのようにして暮らしているのだろう。

 僕は一体どこから来て、どこに行くのだろう。

  ▽  △  ▽

 一体どうしてこのようなことを考えたのか分からない。
 しかし、従兄弟に話して馬鹿にされたのも覚えているから、かなり脚色は入っていようが後から作られた記憶でもなさそうだ。
 ただいえるのは、どうしてここに居るのだろうか、果たして自分はここに居ていいのだろうかという漠然とした不安がそのとき既にあったということだ。

 そのときから既に、おかしな事を考え、おかしな事を尋ねる変わった子だといわれていたように思う。
 ただ、気持ち悪がられるよりは、ものめずらしくて興味をそそる、いわゆる「おもしろい子」として捉えられていたようだから、それほど悪い扱いではなかったのだろう。

 それでも僕は、当時からいつも、自分が周りと食い違っている感覚が常にあった。

  ▽  △  ▽

 きっと僕は、あの頃からずっと、自分のことが嫌いなんだ。
 自分が自分であることが嫌なんだ。

 僕は自分が嫌いだし、自分のことがいつも許せない。
 いつも自分に対してどこか怒りを覚えている。

 そして、同時に、僕に関わる人たちを、いつも疑ってかかっている。
 いつも、信用ならないと警戒しながら過ごしている。

 理屈で、ではない。思考で、でもない。
 思考にもならないもっともっと心の奥の深いところで、僕の心が、他人を警戒し拒絶している。

 でも本当に信じられないのは、他の誰でもない、自分自身なんだ。
 嘘で塗り固められ取り繕われた、ちぐはぐで一貫性がなく、実体が感じられない存在。

 そんな僕が、そんな自分を基準にして人と関わるんだ。人を信じられるわけがない。
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サイト消滅の危機 2005.3.29[Tue]
   
   しばらく、安定して高速に繋げられるネットワーク環境にありませんでした。
 でもって、タイミング悪くレンタルサーバの契約更新次期に重なっていました。

 結果・・
 契約満了日までに契約更新の手続きができてなくて、気が付いたらサイト消滅してました。(汗)

 すみません。30日から復活するはず(ってこれが読めてるってことは復活してるわけなの)です。

 どうもお騒がせしました。
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無茶苦茶 2005.3.21[Mon]
   
   眠い頭で日記を書いたら、すごいことになった。
 話の展開も内容も無茶苦茶だけど、書き直す元気もないので、手直しは諦めて載せてみる。

  ▽ △ ▽ △ ▽

  △ ▽ △ ▽ △

 他者の理解なんてできない。
 自分の事だって良くわからないのに、他の人間のことなんて完全に分かるわけがない。いや、人だけじゃない、自分の身の回りに起こる出来事だって、その原因も理由も、突き詰めれば、わからないし、予測もつかない。
 だけど、どうしても、物事に因果関係を持ち込み、なんとか理解しようとする。とにかく、なんにでも理由、理屈をくっつけ、わかろうとする。過去の出来事だけでなく、未来の予測すら、因果の理屈で納得しようとする。

 それは、自分の人生が自分の望むと望まざるとに関わらず、否応なしに決定し進んでゆき、しかもそうなっていく理由すらよくわからないのでは、恐ろしくてたまらないからなのだろうか。

 所詮、どう理屈を並べ立てて納得したところで、世の出来事はやはり否応なく起こり変化していくことにかわりはないし、だからこそ、たとえ常に自分の望んだとおりの選択ができたとしても、その結果までは望みどおりを保証されるわけでもない。

 それなのに、ここしばらくの私は、幸せ幸せと、まるで念仏のように唱えている。

  ▽ △ ▽

 本当は、たぶん、分かっているんだと思う。
 生きることは、全てめぐり合わせの連続でしかないことを。

 そのめぐり合わせのうち、自分が快いと思ったものに「しあわせ」の名前を与えているだけに過ぎないことに。

 そもそも私の生など、誕生そのものが既に巡りあわせの産物であって、決して私の望みの結果ではないし、生まれたからには、私の望みなどお構いなしに、否応なく死が訪れることは決められている。
 ただ、それがいつになるかが、(自ら生の幕を引かない限り)不確定なだけだ。

 きっと、この世で唯一確実なのは、私はいつか死ぬということ。

 ただ、これにしたって、身の回りの人や動物の死にめぐり合わせ、先人から聞かされたからこそ、確実だと想像できるだけで、突き詰めてみると、本当に一度死んで見ないことには分からない。
 ただ、本当に実行してしまうと、それが正しかった場合、それが正しかったと認識する私はこの世に居なくなってしまう。
 たかが実験のためだけに、後戻りできない行動は、私には取れそうにない。
 今後、他の行動が一切とれなくなってしまう。(笑)

  ▽ △ ▽

 考えてみれば、望みもしないのにいつのまにか生まれていて、新生児のよく分からない状態から、なんとなく人格が出来てきて、何故かものを考えることが出来るようになってみたら、「あなたはいつか死ぬのですよ」だなんて、これ自体があまりに理不尽でとんでもない話だ。

 幸福というものが、辞書にあるとおり(Goo国語辞典から)

 こうふく 【幸福】
 不自由や不満もなく、心が満ち足りていること(さま)。

 だというならば、既に私は生まれたことで不幸だ。
 私がどう望もうと必ず私は死ぬし、ましてやその訪れがいつになるかも不確定というのだから。
 私は生まれながらに不自由だし、だから私は不満だということになってしまう。

  ▽ △ ▽

  ▽ △ ▽

 ところで、「心が満ち足りる」というが、一体心とはなんだろう。

 人間の持つ機能のうち、実際の行動を起こす前段階にあり、その行動の原因・理由となる、動作に現れない内的な働きを指すということだろうか。それとも、外部で起こる出来事から受けた刺激に反応して、外部に向けて行動を返すまでの内部の働きということだろうか。それではまるで、身体の中に演算装置(コンピュータ)があり、身体はそれに接続された外部デバイスであり、刺激と行動はそれぞれinput-outputの関係であるかのようだ。そしてこれらを実現するために、「感じ」たり、「意識」したり「思考」したりしているのだろうか。

 よく分からない。
 私には到底心が何かなど、結論付けられそうにない。

 しかし、結論付けまでは出来ないまでも、とりあえず考えてみる。

 人はたいてい行動には動機があるし、その動機はたいてい不快よりは快を求めているように思う。一見不快を求めるように見える行動さえも、その不快を得ることによって二次的に手に入る何か(誰かへのあてつけだったり、単に自罰の達成への喜びだったり)に快を得ているように思える。

 そしてその快を求めるということは、(少なくとも動物一般においては)自己保存や種の保存の欲求への誘導だと考えていいのではないかと思う。

 それは結局、生物の生は有限であり、与えられた時間には限りがあるうえに、その量は終わりを迎えるその瞬間まで不確定でさえあるから、その限られた時間をいかに延ばすかに汲々としているだけな

のかもしれない。しかしながら、人生は不慮と期待はずれの連続であり、限られた生の中で、常に快ばかりが得られるわけではないし、むしろ不快な場合の方がはるかに多い。これをもって不幸というの

ならば、人生は不幸そのものであるし、快を求める最大の理由が、生命の有限性から来るものであるとすれば、不毛で無為なものとさえ言えるのかもしれない。

 だから、これを言ってしまうと、生命そのものが全て不幸である。 

 エントロピーの神の理によって、この世界は常に乱雑へ、無秩序へと拡散する方向へと向かっている。しかし、それにも関わらず生物は、この宇宙が生まれたときに既にあったこの天の理に逆らい、自

律的に個体を維持し、ましてや自己複製まで行って、類似の分身の生成によって(本体そのものではないが)個体を維持するし、ましてや数を増やしていこうとさえする。

 しかも、動物に至っては、個体を維持するために炭水化物(だけではないが)を燃やしてこれをエネルギーとして動き、積極的、能動的に周囲の環境に働きかけ、変化させ、奪い取ることさえする。
 そしてこの、変化や略奪は、常に破壊を伴う。

 自らエントロピーの神の意志(そのようなものがあればだが)に、積極的に荷担することで、狡猾にも自らだけはこの神の意志から逃れようと躍起になっている。
 けれどこの宇宙に居る限り、結局その理からは逃れることはできず、いつか塵へと帰ってしまう。

 この、存在すること自体が天に唾するような状態こそ、不幸と呼ばずして何と言おう。そして、人間と他の動物との最大の違いは、この状態を、意識しているかいないかの違いだけである。

  ▽ △ ▽

 しかし、逆にいえば、不幸というのは、その状態を指して言うのではなく、ある状態を不幸「である」と意識することで不幸になるわけなのだろう。例えば人間以外の動物も人間も等しく同じ自然の理

の中で生きているが、人間以外の生き物が将来を悲観して死ぬなどという話は聞いたことがない。
 だから、人間だけが、意識して、まだ来ぬ死の瞬間を恐れるし、時には死後についてまで心を馳せる。
 (それを言うと、人間だけが、心の働きによって、本来その身の、手の届かないところにまで思いを馳せ、自己を拡大していこうとするといえるのかもしれない。しかしそんな話に進めてしまうと話が脱線して元に戻ってこれそうにないので、やめる。)

 こんなことを言ってしまうと、心がなければ不幸にならなくてすむ、という短絡に陥りそうになるが、そうすると今度は、幸福も他の何も感じられなくなるのだから、そもそもこの話そのものさえ不要になってしまう。それにそういう短絡の先には、存在を終わらせることが一番手っ取り早いという回答にしか至らない。
 そんなものは解決でもなんでもない。(解決できるかどうかは別の問題としての話だが)
 
  ▽ △ ▽

  ▽ △ ▽

 ここまで、快・不快と幸・不幸を並べて話を進めてきたわけだが、決してこれらが一致するとかほぼ重なるとか言いたいわけではない。囚人のジレンマなどというたとえ話を出すまでもなく、人生においては快を求めるがあまりに不幸に陥ることは多々あるし、経済学における迂回生産の概念も、人間において快・不快が幸・不幸と単純に呼応しないことを示してくれる。

 むしろ、人間がこの「意識」したり「思考」したりする力は、動物が持つ「周囲を変化させや奪い取ることで個体をより確実に維持させていく」性質が拡大されたものであるといえるのかもしれない。

なぜなら、この力は、概念という無形のものを意識下に生み出し、さらにはこれを生産行為により現実世界へ具現化する力だからである。先ほどから、エントロピーの話の中で、無秩序へと拡散するなどと言っているが、そもそもエントロピーの本質は、増大するという事実だけであり、その中で出てくる秩序だの破壊だのというものは、人が後から付けた概念でしかない。(それをいうとエントロピーそのものも人が生み出した概念なのだが)
 そしてこの生産行為というのは、本来ならば、全ての物体が、放置してもエントロピーが増大し、無秩序へと向かうはずのものを、意図的にその筋道を変えて、本来自然には存在しない形で、完全に拡散する手前の、人間にとって都合の良い状態で固定することである。

 そして、この「都合の良い状態」とは、きっと、人間が想像できる範囲で、可能な限り快が増大するだろうと思われる状態のことである。
 
  ▽ △ ▽

 もちろん想像の範囲内でしかないから、結局不慮と期待はずれが常につきまとう。
 だから、人間の活動というのは、結局この宇宙の理との戦いであり、宇宙に内包されている人間が、自らを包括する外部に戦いを挑んでいるのだから、勝てるはずがない。

 そうして人間は、いつも打ちのめされる。
 けれど、それでも人間は、考えることも生産することも止めない。それは、そうすることが人間の性分であり、その行為そのもののなかに快を見出すものであり、どうやってもやめられないものなのだろう。
 
 だから、不確定で不確実に満ちたこの世界にあって、この世界の理を知ることもやめようともしない。不確定性原理などというどうしようもない事実を知りながらも、である。
 
  ▽ △ ▽

 この世界は突き詰めれば理路整然とした法則に支配されており、いつか全ての理を解明することが出来るなどということは、ありえない事であり大嘘である。
 私は過去に応用化学を専攻し、有機化学合成に携わっていたことがあった。このとき嫌というほど思い知らされたものだ。

 机上の学習では、いかにも特定の状況におけば、分子の特定の部位同士は必ず同じように期待する化学反応を起こすかのように学ぶのだが、実践の場では、期待通りの反応が起こることなど、ごくごく稀なことであり、過去に成功した類似の実験の論文を片っ端から引っ張り出してきて総当りで実験器具をフル稼働させ、やっと何か起こるかもしれないという程度のものでしかなく、期待はずれに終わるたびに何度途方にくれ涙したことだろう。
 科学の先端の現場でさえ、大きく偶然に依存せざるを得ない上に、既存の法則や理論も、反証ひとつで簡単にひっくり返り続けてきたのに、どうしてこの世に確実などというものが担保できようか。

 実証されたものというのは、穿った見方をすれば反証が得られるまでの間繋ぎでしかなく、またニュートン力学のように、反証が得られてもなお、概ね利用できる場面があれば、厳密には間違っていることが分かっていてなお、引き続き利用さえされることもあるくらいなのだから。
  
  ▽ △ ▽

  ▽ △ ▽

 生命の有限性と、生命のエントロピーへの反逆とのせめぎあいの中で、生物の進化が起こり、この過程において、人間に「知性」という名の呪いを獲得するに至らしめたのだのだろう。そしてこの知性が、本来混沌へと向かうことが運命付けられているこの宇宙の中で、ご都合主義な「秩序」と言う空想めいた概念を生んでいる。この世では、未来において確実なものは死以外にひとつもなく、過去において確実なの自らが生れ落ちたという事実だけだというのに、それでも人間はわがままにも「自分に都合よく整備され、変化することのない秩序」の中で、安定かつ継続した生活を送ろうと望むが、たいていこれは期待はずれに終わり、そのたびに不幸を感じているように思える。

 それでも、人間は、それが本能であるかのように、この世界に概念という物差しで世界に線を引き、区切り、切り取り、世界を秩序の名の元に理屈と概念の支配下に置こうとする。
 生産し建造することで、この世界に「社会」を持ち込み、世界を改変し人工の世界へと変えてゆく。

 ならば、何より不幸なのは、自らが生み出そうとした秩序が世界に裏切られることではなく、世界に秩序を与えようとする行為そのものが不毛で報われない場合ではないだろうか。

 社会を構成する部品となり、大きな秩序の一部分として全体を見渡すことすら出来ぬままに生きていく。大きな仕組みの小さな部分でしかないから、秩序に組み込まれているにも関わらず秩序は手に取ることも目で見ることも出来ず、目前で展開される現実は、全体から見るとあまりに些細であるから目的も意味も見出せない。不合理や非効率などという歪みも、些細なこととして正されることなく、ただひたすらに盲目的に、自身には意義の見出せない行為と、自身には意味のない成果の再生産を繰り返す。

 モダンタイムスの世界。
  
 それは、自分が自分の人生の主人公であることが許されない世界。仕組みの一部、脇役で固定されてそこから降りられない状態。

 自分自身も世界の一部として、概念の定規で線を引かれ、部品として有用な部分だけを切り出されている。

  ▽ △ ▽

 幸せを感じる瞬間とは、役割としての自分を降りた瞬間に感じられるように思う。

 例えば、期せずして古い友人からの便りが届いたときのような。
 または、空に大きく広がる虹に、空を見上げた瞬間気付いて息をのむときのような。

 秩序にがんじがらめにされ、より巨大で複雑な秩序に組み込まれて生きることに汲々としている間は、無為と絶望しか感じられないのではないだろうか。
 それは社会の組織内だけではない。家庭に戻ってなお、あまりに部品であることに慣れすぎて、生活の内、ごくプライベートな時でさえ、役割をこなすだけになっていたりしないだろうか。

 不毛なルーチンワークで、自らを時計盤に鋲止めすることで、生きることについて考えることを止めたいがために、同時に何か別の大事なものを捨てていないだろうか。
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やさしさ? 2005.3.18[Fri]
   
   「どうせ言っても聞いてもらえないし。頼んでみて駄目だったりすると傷つくんだよね。そんなの何度も繰り返すのいやだし。それならいっそ、最初から自分でやっちゃった方がいいじゃない?」

 こんな言葉を聞いた。(苦笑)

 確かにそれで片づくなら楽だろうね。自分一人で閉じた世界を作って、それで全てがまかなえるなら、どれだけ人間関係の煩わしさが消えることだろう。

 だけど本当にそれでいいのかぁ?

  ▽  △  ▽

 ずいぶん昔、大平健という精神科医の書いた「やさしさの精神病理」という著書を読んだのを思い出した。

 彼は、やさしさを、集団における協調性と円滑な人間関係の維持のための技能として定義した上で、やさしさの質が変化してきているのではないかと投げかけ、それらの違いを次のように読み解いていく。
 旧来のやさしさが、我が身を相手の立場に置き換えて思考する、言い換えれば相手の心中に踏み込もうとする積極性を持っていたのに対して、新しい型の「やさしさ」は、相手の立場に踏み込まず、それとなく距離を置いて見守ることで、相手を傷つけないようにする、消極的なものに変わってきているのではないかと。
 そして彼はこれらに、旧来型の優しさを「ホット」、新しい型を「ウォーム」、そして、ドクターと患者との関係のような、しっかりと相手との間に線を引き距離を置いた関係を「クール」と名付け、書き進めていく。

  ▽  △  ▽

 この著作に出てくる患者曰く、ホットなやさしさは、一見「やさしそー」ではあるけれど、「なにかウットーシ」くて敬遠したくなるような感じであるという。彼(彼ら?)が求めているのは、なにもかまわず、そっとしておいてあげるという「ウォーム」なやさしさであるというのだ。

 確かに、旧来の「ホット」なやさしさは、いわゆる「思いやり」に通じるものであるわけだが、この手のやさしさは、相手に踏み込まれるおそれがあるために、新しい型の「ウォーム」なやさしさとは、決して相容れない。

  ▽  △  ▽

 そんなことを思い出しながら考えてみると、私が考える(いや、この日記でよく書いている)ような人との接し方は、「ウォーム指向」な人間にとってはあまりにも距離が近すぎて、著書の言葉を借りれば「うざったいからちょっとカンベン」なのかもしれないと思ったわけである。

 「ウォーム」なやさしさというのは、相手を「傷つけないこと」を軸に据えた思考であり、そのために、相手に「踏み込まないこと」を軸にして行動する。しかしそれは、裏返せば「僕のことはほっといてくれ、僕にかまわないでくれ。僕は傷つきたくないんだ。」という「傷つくこと」に対する過剰な自己防衛に見て取れる。
 そして、このタイプの人間は、人とぶつかることをおそれるあまりに、社交辞令に磨きをかけ、外面を建前という防壁でガードする。しかし、その防壁の後ろ側では、いつも覆い隠され日陰にしまい込まれた「本音」(で振る舞ったり伝えたりする能力)が、未熟で未発達なまま萎れている。
 かなしいかな、この手の人間は、自分が建前の防壁で身を守り、いつも本音を押し隠していることを自覚している。だから、自覚するあまり、その後ろに隠しているものを「本当の自分」だと思いこみ、なおいっそう懸命になってそれを隠し守ろうとしているように、私には見える。
 大平氏もこのタイプは「自分探し」に邁進すると述べている。

 そんなものはどこにもないのに。

 奥にしまい込み守っていたものを、さらけ出してみればすぐにわかる。本当の自分だと思っていたそれは、どんなに優しく暖かく、信頼に足る人の前でも、全く何も言えず、何も伝えられないだろうから。
 だって、それは、単なる萎れた「自己主張能力や共感能力」なんだから。

 「心開いたが故に傷つけられた。」と嘆くのがおちだ。

 かくいう私こそ、かつてそうであり、未だにその傾向を持っているのだが。かつて私が隠していたのは、本当の自分などではない、「甘えん坊でわがまま」な、未熟な自己だった。

  ▽  △  ▽

 ひとつ、私が自分自身を振り返ってみても、不思議に思うのは、この「ウォーム」な人というのは、傷つけられることには非常に敏感で、また、「傷つけないためにそっと見守る」人でもあるはずなのに、実際に人を傷つけることに対しては非常に鈍感で、傷つけていることを非難されてもなお、自分がよもやそんな恐ろしいことをしているなどとは思いもしないということだ。

 どうしてなのだろう。
 やはり、過去の日記にも書いたように、傷つき傷つけられることなしには、親密な関係を作ること(や、そのための能力を身につけること)はできないということなんだろうか。
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2005.3.17[Thu]
   
   最近良く夢を見る。しかも覚えている。
 今までにはないこと。

 ふわりふわりと宙を舞う夢を見た。
 自分が何に変化していたのかは分からない。

 舞っていた場所は母校の小学校だった。一体何十年前のことか。ばかばかしい夢と笑ってもいいのかもしれないが、何故かどうしても笑えない。

  ▽ △ ▽

 そこは鰻の寝床のようなくびれた敷地だった。校舎や講堂、プールなどが詰め込まれたようになっていて、とにかくその間が狭い。

 その狭いところに、びっしりと蜘蛛の巣が張っている。
 よく見ると、アロエのような植物に擬態した不思議な蜘蛛が真中に居る。
 足は根元が太く、先に行くほど細くなっていて、アロエの葉のようなとげがあり、鮮やかな黄緑をしている。黄や黒を配した毒々しい女郎蜘蛛などとちがって、単色で美しい。

 しかし、困ったことに通れない。とにかくどっちを向いても蜘蛛の巣、どこにも行けない。何とかかわして通り抜けようとしたが、結局網にかかってしまい、必死になって身を引き剥がそうと、逆方向にもどるとぐいーっとゴムのように伸びたネットは、身体から離れるや、すこし破れて元の場所に戻った。

 どうも頭に蜘蛛の巣がついたようだ。
 ぶんぶんと振る。

 そこで目がさめた。本当に頭を振っていた。

  ▽ △ ▽

 確かに、現実生活でも閉塞感に満ちている。
 どこにも行けない感覚で、もがいている。
 明日も見えない、そんな重い空気。

 どうして上へと昇らなかったのだろう。
 蜘蛛の巣のないほどの高みに、高みに。
 蜘蛛の巣を破ってでもその向こうへ行こうとどうして思わなかったのだろう。

 理由はそれとなくわかっている。
 今、居るべき自分の居場所が、ない。
 いや違う。居場所ならぬ居場所を変えようとして、完全に壊してしまったから。消したのだ。

 居心地悪ければ、少しずつ手を入れ、変えて行けばいいのに。
 痛んできたのなら、修理して行けばいいのに。

 最初は手を入れようとしたが、一人では無理だった。
 手を貸してくれと叫び懇願したが、声は届かなかった。
 
 それからの僕は、ただただ、黙ってじっとして、不平だけを述べながら、居心地が良くなることを期待して、待つだけの人間だった。そうして、待つことに耐え切れなくなって、我が巣を、壊して捨てた。

 声が届くまで叫びつづけなかったのだ。
 諦めることが習い性になっていた。

 ところが、実は声は届いていたのだ。しかし、相手にはそれが何を意味するか分からなかっただけだったのだ。

  ▽ △ ▽

  ▽ △ ▽

 動けば変わるというわけではない。
 叫べば伝わるわけでもない。

 何かを変えるためには、変わるまで動き続けなければならない。
 何かを打ち破るためには、破れるまで打ちつづけなければいけない。

 そして何より、何かを変えるより先に、自らも変わる勇気が必要だ。
 他者との関わりの中では、互いに、常に変化を要求される。

 諦めは、全ての変化を止め、諦めた者は、拗ねて自虐に走る愚か者へと自らを縮めでいく。他者との関わりの中では、時には妥協も諦めも必要だが、自らの思いや願いまで諦めたのでは、その身体は動く骸と言われてももはや否定できない。

  ▽ △ ▽

 思いが、願いが現実離れしているならば、現実性を帯びるまで変えてゆけばいい。大きすぎるならコンパクトにまとめればいい。夢は、大きければ大きいほど、潰えたときのリスクも大きい。だから、覚悟さえあるなら、大きなままの夢をそのまま抱けばいい。

 諦める必要はない。夢を諦めるというのは、抱いた夢想を現実と擦りあわせ、実現へと進めていくことを放棄する行為だ。
 しかしそれは、実現することを放棄するのではなく、抱いた美しき夢想が現実によって無残にも変えられ手垢が付いてしまうことを恐れて、変化させ現実化させることを放棄しているのだ。

 現実離れしている未熟で稚拙な夢想と、生きるためのモチベーションとなる夢は、起点こそ同じだがその意味は全く異なる。

  ▽ △ ▽

 夢は、実現しようとするために抱くものだ。そして、そこに至ろうとする道筋こそが夢の本質だ。
 しかし、夢は実現するかどうかまでは斟酌してくれない。だから夢を抱いたからと言って、決して実現は保証されない。

 また、その道を選ぶということは、選び進むことが出来るかもしれなかった他の道を捨てるということでもある。

 だからといって、どれも捨てられない者は、結局動けずすくむことになるし、失敗を恐れる者も、やはり立ち往生する。

  ▽ △ ▽

  ▽ △ ▽

 今になって振り返ると、僕は夢想と言う名の繭の中に逃げ込んで動けずにいただけなのだと、そう思う。
 そう、大人気なく拗ねていたんだ。

 現実と向き合い渡り合うことで傷つくことを恐れ、頑なに殻の中に逃げ込んでいたのだ。

 だからいつもいつも、いつまでも嘆いていた。
 それはさながら、動く骸、ゾンビと同じだった。


  ▽ △ ▽

 だから、もう、嘆かない。嘆きたくない。
 たとえ理想ばかりだといわれようと、夢想に逃げ込むよりはずっとましだ。
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よくわからない 2005.3.11[Fri]
   
   昨日の日記、(なんと)言い足りなかった言葉を加筆しました。
 さらに長くなった・・もはや日記じゃない。

  ▽ △ ▽

 今日は一日休憩します。(笑)
 とかいいながら、今昼食時です。もしかすると、夜になると、気が変わるかもしれませんし、変わらないかもしれません。
 自分で何がしたいのか言いたいのか、よくわかりません。

 言いたい事は沢山あるように思えますが、なぜ言いたいのかが分かりません。
 目的ないのに手段だけ気になるという、昨日の話のぶり返しですね。

 よくわかりません。
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長い繰り言 2005.3.10[Thu]
   
  昨日は、自分を半ば投げ出しかけていた。
どうしようも無いと感じていること、途方にくれていることまで正当化しようとしていたのかもしれない。
いや、無力感に負けて、単にあきらめようととしただけなのかもしれない。

  ▽  △  ▽

 思えば、私はどうして、自由や正義、やさしさや思いやりなどと言うものにこだわり考え込んできたのだろう。どうしてことさら社会性や世界観などと言うものに重要さを感じていたのだろうか。そういった疑問が出てくる。
 そもそも、どうして考え込んでいるのだろう。

 何か目的があって、その解決の手段として、思考しているはずだ。手段を目的化してしまっては、単なる言葉遊びに陥る。空論が空論を呼んで虚無的になってしまうはずだ。

 どうもそういう状態に陥っているような気がする。

  ▽  △  ▽

 私は幼いころから、世の中と言うものは個人、いや、私に対して数多くの制限を投げかけてくるものだと感じていたように思う。私が私の感じるがまま、思うがままに行動しようとすると、直ちに「常識」なり「一般」「普通」という理屈のもとに、私の動きを制限し、矯正し、目立たぬものへと押さえ込もうとしているように感じた。それは、私のとろうとした行動が、(当時の)私が考えても、他の誰にもなんの影響も与えないはずのことにおいてすら、制限という手かせ、足かせをかけようとしていたようにすら感じていた。
 それでいながら、世の中に属している各個人というのは、「他の者に迷惑をかけない限り」という条件を満たしているという大義名分の下、周囲からの干渉を拒絶し、まるで切り離されたばらばらの存在のように気ままに振舞っているように見えた。
 私にとっては、その、「集団から切り離されて独自で」進まねばならないリスクを負ってまで他からの干渉を拒絶する頑迷さが理解できない反面、そうして自らの我を通す意志に半ばあきれながらもなにかうらやましさのようなものも感じていたように思う。

 要は、世の中から「普通」であると看做される限りにおいては、人々はめいめいが気まま勝手であり、他者からの干渉を「個人の自由」の名の下に徹底的に排除する。しかし、その一方、多数の意見である「常識」に収まっていると主張する限り、自分の意思や意見で他者を制限することさえ正当化しようとする。

 もし、この「個人の自由」と言うのが、等しく皆に与えられているのならば、各人は対等に、他者から制限されない権利を持つはずで、他者に不利益や制限を加えない限りにおいては、全く思うがままに行動してよいはずである。
 しかし、この個人へと縮小化されたリベラリズムすら成り立たないような矛盾を、世の人々は、「常識」や「普通」といった言葉の元に正当化していると、当時の私には感じられたのだ。

 もちろん、幼い私がこのような思考で考えたわけがない。しかし、特に周囲に迷惑をかけるわけでも、問題行動を起こすわけでも無いというのに、私に対し、周囲の大人だけでなく、同年代の者までもが、「普通じゃない」「変わっている」と言い、私がいわゆる「普通の子供」になるように明に暗に干渉し続けたのだと感じていたのは事実なのだ。

 だからこそ、私は、こういった、他者との関わりを極力排除する一方、自らの主張を通すためには平気で「多数派」を装い自己を正当化しようとする、いわゆる「善良な市民」たちに言いようもない嫌悪感を、今もって抱き続けている。

  ▽  △  ▽

 本来人は、集団を形成し、それを社会化することで、個の利益を最大化するとともに、リスクを最小化しようとするもののはずだ。だからこそ、それぞれの個は「社会性」によって集団の共通認識を形成し、個々がこれを「世界観」として共有することで、これに基づいて相互扶助を行うとともに、社会から逸脱し安定を阻害するものは(しかたなく)矯正することになるのだと、私は思う。

 だから、社会の安定を阻害せず、より社会へと貢献する限り、個の活動は制限されず、むしろ社会から守られねばならないものであって、社会から逸脱しているのならいざ知らず、標準的、平均的なモデルからのぶれともいえる「個性」すら押しつぶそうとする必要性がわからない。どうして、「普通」という名の下に、金太郎飴のような画一化されなければならないのか。

 人は、各々が積極的に互いを助けあおうとすることで、ばらばらでいるよりもより安全と幸福を得ようとする。だからこそ、人は皆社会から受け入れられ承認され、必要とされることで社会に居場所を見つけ、安寧を感じるんだと、僕は思っている。
 だから、そのためには、自己の主張よりむしろ、他者を許容することが大切なのではないかと思うのだ。

  ▽  △  ▽

 ここで、私は、決して、他者への理解が大切だとは言わない。
 突き詰めれば、他者を理解することは限りなく不可能に近いからだ。あくまで、先ほど述べた「共通化された世界観」という、本来ありえない理想に基づいて、各人が全力を持って想像し、共感しようとすることによって、かろうじてそれらしきものが成り立つのだと私は思うから。

 そして、思いやりはこの、「相手を理解し、共感すること」を起点として行われる、相互扶助の精神の発現であろう。だから、思いやる側と思いやられる側の双方に「共通化された世界観」(いや、価値観と言い換えた方がいいかもしれない)がないと、そもそも行おうとすることすらできない。

 そう、思いやりは、「共通化された世界観」が「完全」に一致してこそ、初めて相手の立場に立つことができ、うまく成しえるものである。しかし、実際のところ「共通化された世界観」は理想化された幻想でしかなく、限られた条件においてのみかろうじて、人々が類似の世界観を持つ程度である。各人の世界観にはぶれがあり、このために、思いやりは常に期待外れの結果に終わる危険性をはらんでいる。しかしながら、このぶれを悪しきものと言う事はできない。なぜなら、この世界観のぶれこそが「個人の自由」において重要視される「個性」に他ならないからだ。


 たとえば、どんなに想像したところで、アメリカ的なリベラル民主主義者が、イスラム原理主義者の立場になって、相手の気持ちを理解するなんて、できるわけない。事実としてあるのは、そういう立場の者が居て、本質的なところで議論すると、分かり合うどころか100%確実に衝突することになるということだ。
 ただできるのは、百歩譲って、そういう立場の者もおり、近づくと確実に衝突するわけだから互いを理解できないまま許容し、互いに相手にせず放置を決め込むことだけである。このような極端な場合には、思いやりは全く意味をなさない。

 (赤字部加筆)


 だから、思いやりは、それを行うことで他者を助け支えられることを期待するものではあるけれど、現実には、偶然うまくかみ合ったときのみそれが実現するのであって、たいていの場合においては思いやりが功を奏することよりも、思いやりを成そうとした意思なり行動に対して、感謝や賞賛を返すことで、互いの信頼関係に資するという効果を生むことでやっとなんとか徒労に終わらずに済むのだと思う。
 あえてそれ以上の効果を見いだそうとするならば、次以降にいつか来る「偶然成功裏に終わる思いやり」を互いにあきらめずに待つことなのではないかとすら思うのだ。

  ▽  △  ▽

 しかし現実には、この世の人々が、個人レベルで非常に排他的であり他者からの干渉を極端に嫌い、同時に他者へ善意の干渉を行うことも嫌って居るようにしか、私には見えない。
 例えば、巷には案内や警告を発する掲示物や放送であふれ、本来ならば各人が行えばすむことまで社会に委ね、互いに干渉しあうことを排除している。本来各人が持たねばならない責任すら社会へと押し付け任せ、個人レベルの相互扶助の実現の為に本来各人が希求して止まないはずの「共通化された世界観」を構築する努力すら社会へ押し付け放棄して、「個人の自由」を謳歌しようとしている。
 その一方、自己の言いぶんを主張するときには、いかにも自分が世の多数派であり、「常識」の名のもとに、個人の主張をさも社会の要請、世論であるかのように言い、「善良な一市民」を標榜する。
 社会を構成する一個人であり、社会の中の一意見であるという自覚はそこにはなく、個人の主張は平板で稚拙な理屈によって「一般論」にすり替えられ、そうして自分は責任を負わないまま、自分とは相容れない意見や活動を制限し押しつぶそうとする。
 その結果、社会に押し付けたはずの責任が「自己責任」の名のもとに、社会からいびつで偏った形で押し返されていることにすら気付かずにだ。

 さらに、最も酷いのは、この「善良な一市民」は、一方的で独善に満ちた価値観すら「一般論」にすりかえて、「思いやり」の名のもとにこれを行おうとすらすることだ。自分が相手の立場に立とうとするのではなく、相手を自分の考え方にならわせて行う「思いやり」など、独善に満ちた暴力でしかない。

 こういう稚拙な一般論に押しつぶされたり、ゆがみ偏った自己責任の標的となって犠牲になるものはどうすればいいのだ。


  ▽  △  ▽

  ▽  △  ▽

 このように、元々私は、世の中は私に対して非常に敵対的で否定的だと感じていた。
 しかし、だからといって、私は世の中に対して敵対的であろうと考えているわけではない。

 むしろ、私は単に、社会に受け入れられ承認されたいだけなのだ。
 受け入れられ、抱きとめられ、安寧を手に入れたいだけなのだ。

 だから私は決して、他者を否定したくはないし、逆に他者を理解したなどという欺瞞に満ちた言葉を述べたくもない。
 ただ私にできる限りにおいて、他者へと関わり働きかけ、より良好な関係の中で喜びと幸せを共有できることを思い願っているだけなのだ。

 きっと、単に、さびしいから受け入れられたいと願っているだけの拗ねた存在なのだ。
 だから、それが実現できるのならば、きっと何でもするだろう。

  ▽  △  ▽

 私は、このような世の中に居て、他の皆がどうしてさびしくないのか不思議で仕方がない。
 もしかすると、私が気づいてないだけで、皆本質としてはさびしいのだろうか。
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膠着 2005.3.9[Wed]
   
  僕は、時間を止めたがっている。現実から逃げたがっている。
頭の中の理想の世界に逃げ込んで、現実を頭から締め出そうとしている。

現実の全てが煩わしく、苦難ばかりだと思っている。
突き詰めれば、他人は皆自分の味方にはならないと思っている。

頭が思っているんではない。
心の奥底にこびりついている。
理屈では取り除けないくらいにしっかりへばりついている。

それが僕の毎日の生活を支配している。
無意識のうちに支配している。

 ▽

文字と言葉の理想郷。
そこでは全ては道理に基づいており、曖昧さも偶然もない。
そう、僕の都合の良いように、道理は成り立ち、僕の関心のないところでは、野となれ山となれ。
私に関してのみ、偶然も曖昧も許さないが、私自身が曖昧であったり惑ったりするのは許されている。

そんな世界に住んでいる。
僕の頭の中の世界。

利己主義の塊。反吐が出る。

 ▽ △ ▽

 ▽ △ ▽

思いやり思いやりというが、俺に他人の何がわかるというのだ。
俺は全知全能の存在か? 相手のことがわかりえないのに思いやりとは笑わせる。

毎日毎日長々と、まるで思いやりが普遍的なものとして定義できるかのように躍起になっているが、思いやりとは人類共通、普遍のものなのか。
思いやりに客観性はあるか? ないだろう?

思いやりとは、あくまで、相手はこう感じ考えているだろうと

 「俺」

が思ったことが基点になってるじゃないか。

たとえそれが空振ったとしても、「あああの人は私のことを思ってそうしてくれたんだ」と許容してくれることを期待してるからそんなことがいえるんだ。

俺が良かれと思ってやったことで、相手を悲しみのどん底に落とすかもしれないのは、もはや身にしみて分かってるはずではないか。そこまで追いやってなお、俺はそれを償えるのか?

出来ない。出来ないんだよ。
出来るわけがないんだよ。

自分の人生さえも背負いきれてない俺が、人の人生まで背負えるか?
人の支えになり、人の助けになろうとすることが仇となって、逆に相手の足をすくうことにもなりえるんだ。

俺は、それでも思いやりを持とうというのか?

 ▽ △ ▽

 ▽ △ ▽

動け、関われ、変化せよ。
内側になど答えはない。
外とのかかわりの中で答えらしきものが見えるのだ。

大事なのは答えじゃない。
現実だ。現状だ。
未来に待ち受ける新たな相だ。

外部から独立した自己など、考えるだけ無駄だ。
他者に投影した自己だけを考えるのも無駄だ。

私は他者とのかかわりの中で、渾然一体となって存在する。
私は他者から関わられ、私は他者に関わる。

それこそ私が存在する証拠だし、存在する意義だ。
他者と関わることで、私という人格がここに出来たんだ。

食らい、排泄し、眠り、しゃべり、聞き、交わり、まぐわう。

それが私だ。
惑い誤り、つまづきころび、傷つけ傷つけられつつ、のたうち苦しみ、生きていくんだ。

意味じゃない、存在だ。
生きてるんだ。
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友達と傷 2005.3.8[Tue]
   
   友達ってなんだろう。

 Goo辞書で引いてみた。
 「一緒に勉強したり仕事をしたり遊んだりして、親しく交わる人。友人。友。朋友(ほうゆう)。」

 どうも、人生の中で、親しく関わりあうようになった人間の関係を指すらしい。

 しかし、親しい上司と部下、信頼しあう師弟、仲の良い親子は、「まるで友達のよう」とは言うかもしれないけれど、友達とは言わない。だから、少なくとも、上下のない、対等な関係であることが条件なんだろうな。

  ▽  △  ▽

 次に、親友。
 「互いに信頼し合っている友達。きわめて仲のよい友達。」

 これまた、シンプルな説明だなあ・・

 んーと、信頼ってのは、いくら自分が優れていようと、いくら自分が正当だろうと、それだけで得られるわけじゃないってのは、先日の日記で書いてみたことだ。
 信頼ってのは、誠実さが行動に裏打ちされていて初めて、少しずつ手に入るものなんだと、やっぱり僕は、思う。

 となると、言動が一致していることや、思いやりある言動であること、嘘や隠し事がないこと、なんてのが大事なんだろうな。
 そうやって信頼を互いに育てて、それに基づいて互いに相手のことを理解しあって、支えあい助け合う。

 親友って言うと、そういうイメージだろうか。

  ▽  △  ▽

 思いやりというと、自分を取り巻く全ての人に、思いやりを持って接することができればいうことはないのだけど、実際のところは、生きてると、知らぬ間にひとを傷つけたり、傷つけられたりするものだ。自分の想いも依らぬところで、人を傷つけたり困らせたり苦しめたりしているものだ。

 ところでここで、わざとじゃないってのが曲者で、わざとじゃないだけに、問題があってもなかなか気付けなかったりする。

 「わざとじゃない」「悪気はなかった」なんて言葉、たまに聞くわけだけど、逆にいうと、悪意があるほうが、反省はしやすいという皮肉だっていえなくもないわけだ。

 事実、気付けないことというのは、なかなか直らないので、何度も同じ事で相手を傷つけたりいやな思いをさせたりしがちな気がする。 

 これは僕自身、かなり反省しなければならないことだ。

  ▽  △  ▽

 ところで、この「傷つける」ということについて。
 
 何が傷つくかが略されているわけだけど、これは暗黙に「心」が、なんだろうね。

 人を傷つけるようなこと、しちゃいけないんだよね。至極もっともなことだし、僕はそのとおりだと思う。だから、ここから考えても、なかなか考えが広がらないんだ。

 だから、逆説的に、こんな問いから考えてみようと思う。

 「傷つけられたとき、傷つけた相手が悪いと思うか」

  ▽  △  ▽

 人と人とが生きていれば、必ず人と触れ合う。
 優しいふれあいばかりであればいいが、関係が緊密になればなるほど、ふれあいがぶつかり合いになることも多くなるから、必然的に傷ついたり傷つけられたりする機会は増えてしまう。

 それは言い換えると、さっき言った、「悪気はないトラブル」ってのが、頻度として増えるってことなんだ。そして、この「わざとじゃないんだけど傷つけてしまう」というのは、勘違いなんかで、自分がこうだと思っている相手の印象と実物(実際の相手)とが食い違っていることから来るのかなあなんて思う。

 「この人ならばこの想い、この言葉は受け入れてくれるだろう」

 と思うから、その人に言葉を伝えるわけで、それが実際には思ったとおりに行かないから食い違いを起こして、「トラブル発生」となっちゃうわけだ。

 だから、考え方を変えると、わざとじゃないのに起こってしまう、友達同士の(わざとじゃない)トラブルというのは、互いの関係を依り親密にするために通らなければらない道だともいえる。
 それを恐れたり避けたりしていては、決して親密な関係は作れないんじゃないかと、思うわけだ。

  ▽  △  ▽

 互いに傷つけあうことが出来るというのはつまり、互いが対等な関係であるという証拠でもある。対等でなければ、一方的に傷つけるだけで終わるんだ。そういう意味では、傷つけ「合える」のであれば、確かに辛いことだが、そう悪いことでもないように僕には思えたりするんだ。

 だから、ことさらに傷つけられることを恐れ、非難ばかりしていては、だんだん相手は、こわごわ腫れ物に触るようにしか付き合ってくれなくなるだろう。それに、忌憚のない言葉、歯に衣着せぬ言葉というのは、いつも耳に痛いものだ。当然、少なからず心が痛む。だから、傷つくことを過剰に恐れていては、こういう言葉もいってもらえなくなる。
 結果として、イエスマンだけが身の回りに残るなんて事にもなりかねない。

  ▽  △  ▽

 僕が思うのは、確かに傷つけるのは、自分の外側の何かであるわけだけれども、それを感じるのは「自分自身」であるという意味で、「傷つく」ということはとても「主観的」な感覚なんじゃないかということなんだ。
 確かに人は皆、心傷つけられたくなんかないわけで、できればそんな目に遭わないまま毎日を過ごせたら、どれだけ良いだろうかと思う。けれども実際のところ、生きていれば否応なくいろんなことが身の回りに起こり、結果として傷ついたと感じたのが「自分自身」なんだ。
 乱暴な言い方をしてしまえば、「僕が傷ついたと思ったから傷ついて」いるんだ。
 決して相手だけが悪いんじゃない。
 
 僕が傷ついたと思った瞬間、それは無意識のうちに相手を非難しているって事なんだ。そしてその非難は、いつも正当であるとは限らない。

  ▽  △  ▽

 友達同士の諍いや、そこまで行かないにしてもちょっとしたいやな思いなんてのは、日常茶飯事だ。だけどこれは、人間という生き物が、他の多くの人々の中で生きていく上で、より良い人間関係を築き、大切な仲間を見出し肩を並べて生きていけるようになるために必要不可欠なものなんじゃないかと、最近特にそう思うんだ。
 
 そう、傷つくことは思いやりの心を育てるために必須なんだと思うんだ。
 傷つくこと、それ自身が、いうならば「ひととして生きている証」とさえいえるように思う。 

 だから、傷つくことを過剰に恐れる人々にも、それだけの正当な理由があるわけだけど、僕はそれでもあえて、傷つくことを過剰に嫌う人や、傷つけられた事についてことさらに非難の声をあげる人というのは、どうかと思う。
 相手が傷つけない関係ってのもないわけじゃない。でもそれは、幼い頃の母子の関係や、ラブラブな恋人にこそ求めるものじゃないか。(うーん、いつか機会があったら触れてみようかな。ちゃんと書けるかなこんな頭カチコチ野郎に 笑)

 むしろ傷ついたかどうかよりも、何が問題であるのかを互いに話し合えることの方が、ずっと大事だと、僕は思うんだ。

  ▽  △  ▽

 自分が傷ついたということばかり言う人は、だんだん何も言ってもらえなくなる。解決よりも謝意、いや断罪の方を重要視するからだ。
 なにが問題なのかまでたどり着けない。それが一番もったいない。

 厳しさを含む「思いやり」よりも、人当たりのよい「優しさ」を優先するようなものだ。それではいつまでたっても変わらない。

 とかいいながら、かく言う僕自身がそういう人間なんだけどね。(おいおい)
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脳みそより 2005.3.7[Mon]
   
   思考の力なんていらない。
 (もちろん優れてるわけじゃないけどね)

 行動する力が欲しい。
 周囲の人々と助け合うための行動力と
 自分を支えるための行動力

 思いやりを実現する力が欲しい。
 人と自分を大事に使用と思う気持ちを実現する力が欲しい。

 力、エネルギーが欲しい。
 
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過去に囚われて未来を失うという話 2005.3.6[Sun]
   
   昨日、寝ぼけた頭で日記を書いたら、朝読むとわけのわからない文章だった。(笑)

 昨日考えたことというのはね、たぶん、後悔しても何も変わらないよって感じのことを言いたかったのだと思う。だけどね、後悔している人を慰め元気付けるときによく言われる、

 「振り返ったって仕方ないんだから、過去のことは忘れて前を向いて歩かなきゃ」

 なんて言葉も的外れだってことが言いたかったんだ。

  ▽  △  ▽

 昔なかよくしていた(もうこの世に居ない)友達が、過去ばかりに囚われて、後悔ばかりして毎日を暮らしてたんだ。でね、その友達に、僕はさっき書いたようなことをそのまま言ったんだ。
 そしたら、

 「過去のことを考えるなといわれたって、どうしたって考えちゃうんだよ。物忘れの魔法でもかけてもらわない限り、どうやったって(過去のことを考えて後悔するのを)やめられないよ!」

 と、叫ばれたんだ。

 そのとき、確かにそのとおりだと思った。記憶って、そう簡単に拾ったり捨てたりなんてできない。

  ▽  △  ▽

 ちょうど、現在の自分が、まさにそのときの友達と同じように、過去ばかりを振り返ってため息つきっぱなしの状態だったんだ。それで、どうしようもなくなって途方にくれてたときに、その友達の声が聞こえたような気がしたんだ。

 「ほらね、どうしようもないでしょ」

 僕は、どうやったって変えることのできない「過去」の積み重ねの結果として、現在を生きている。だから、どうやったって過去を切り離すことは出来ないし、だからこそ、悲しい過去はいつまでも自分の心を痛めつづける。
 それを昨日の僕は「因果のくびき」という言葉にしたんだ。

  ▽  △  ▽

 悪い過去、悲しい過去ばかりじゃなかったでしょって、言う人が居るかもしれない。楽しかったことだってあるんだから、過去を否定する必要はないでしょうってね。
 僕も、他人としてなら、そんな言葉を吐くかもしれない。

 でも、自分にはさすがに、言えないでしょ?
 記憶のいいところだけ置いといて、いやな部分だけ捨てるなんて、できないんだから。全部まとめて、僕という人間を作り上げてきた部分なんだから。

 例えば、「あなたがひとに冷たいのは、あなたが昔から理屈っぽく物事を考えて、合理性ばかりを追っかけてきたからだよ。さらには、そういう風に育てられたからだよ。」なんて人が仮に居たとして、そういう理屈っぽくて冷たい性格のせいで、大切な友達や仲間がその人から離れていったとする。
 
 過去を反省することは出来る。
 だけど、それだけで離れていった友人が、戻るわけじゃない。
 下手をすると、理屈っぽく育てた人たちを恨む方に走っちゃうかもしれない。

 今ある問題(結果)の、原因を探すことは、その問題を解決するための糸口になることは間違いない。けれど、その「原因」にこだわってしまって、逆に解決の糸口を見失うことも、多々ある。

 特に、「関係」についてを問題にしている場合は、その傾向が強いような気がする。

 あの人のせいで・・・
 あの出来事のせいで・・
 あの会社のやり方のせいで・・
  
 こんな感じね。

 問題は自分のものなのに、対象(原因)を自分の外側に置いちゃうことで、問題と向き合うことから逃げてしまっているのかなあなんて、思ったわけなんだ。

 その対象(原因)との「関係」を結んだのは、望むと望まざるとに関わらず、その人なんだ。ときには、否応ないかもしれないけれど、それでも、自分の人生の一部なんだ。

 その関係が現在のものであり、可能であれば、その関係を断つことで解決できるかもしれないね。だけど、切り離すことによって新たに起こる出来事については、やっぱり自分自身が引き受けなきゃ仕方がない。それに、どうやっても切り離せないような、否応ないことについては、そもそも切り離しようもないね。

 「過去」なんかもそういうもののひとつだね。

 それを、「あのときこんなことがあったせいで」と、自分の通ってきた過去のことまで、「過去のせい」にしちゃうのなら、それは結局、自分自身の過去さえも、自分の外側に置いちゃうことになるんじゃないかなあって、思ったんだ。

 自分の過去なんて、間違いなく自分の一部なのにね。
 切り離したくても切り離しようがない。

  ▽  △  ▽

 だから僕は、切り離すのではなく逆に取り込んで行った方がいいんじゃないかと、思い始めたんだ。

 「あのときこんなことがあったから、こんな風になっちゃったんだ」

 じゃなくて

 「今こんな風になっているのは、一体僕にどんな変化を期待しているのだろうか?」

 とね。

 過去は変えることは出来ないけれど、過去をどう捉えるかは変えることが出来る。悲しい過去を、自分の中から締め出すことで解決しようとする人が居ても、それはその人の自由だけど、それではただ苦しみだけが行き場を失って心に残るだけだ。

 ならば、受け止めて、その悲しい過去が自分の未来に対して、どのような良い変化をもたらしてくれるかを考えた方が、ずっといい。

 どんな出来事にも、必ず、自分に良い変化をもたらすためのメッセージが隠されていて、目をそらさず「現在の事」として受け止め、感じ考え続けたら、そのメッセージを見つけ出すことが、きっとできる。


 そういう意味をこめて、昨日の僕は

 「過去すら変えることが出来る」

 と、言ったんだ。

  ▽  △  ▽

 理由や目的が、自分の外から与えられて、人は生まれてきたわけじゃない。
 生きる理由を、誰かが与えてくれるわけじゃない。

 決して、趣味や余暇、仕事や生きがいから意味が生まれてくるわけでもない。


 きっと、生きていく上で、起こる様々な出来事の中から、自分の生きる意味や目的を見出していくことで、生きる理由や目的が生まれてくるんだ。
 きっと、生きる理由や目的こそ、その人の「個性」なんだ。

 それでもあえて、人類に共通する「生きている意味」というのを定義するとすれば、

 「各人が、それぞれの生きる理由、目的を、それまでの人生の中から見つけ、変化し成長していく」

 ことなんだって、今、そう思っている。
 苦難と向き合い成長することこそが、生きる目的なんだと、そう思っている。

  ▽  △  ▽

 でも、そうはいってもね・・

 買ってまで苦難を引き受けたくはないけどね。
 今ある分だけで、もうおなかいっぱいだよ。(笑)
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因果の軛(くびき) 2005.3.5[Sat]
   
   現在の僕は因果の果てにあるといえる。
 僕が今こうして綴る言葉も、成長という道の果てにあるものだ。

 では・・
 私の頭の中にある、因果の理屈は、果たして正しいのか?

 現象は時の流れに乗っかって時々刻々と起こり過ぎてゆくが、人はそれを捉えるに当たり、関連のある事象だけを取り出し、ストーリーでつなげて記憶にとどめる。

 つまり、記憶は、現象そのものではなくなっている。

 そう、見落とした、もしくは切り捨てた部分が違っていれば、また異なるストーリーもあるはずなんだ。

 因果にこだわると、過去に縫いつけられて動けなくなる。
 現在に意味づけしてゆくことができれば、あるいはこの、因果の記憶も変えてゆけるかもしれない。
 縫いつけられずともすむかもしれない。

 過去すら変えられるのかもしれない。
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哀願 2005.3.4[Fri]
   
   どうか・・
 人智を超える大いなる存在があるならば・・・

 行き場も寄る辺もない私に、道を指し示してください。
 どうか、この途方にくれる私を導いて下さい。

  ▽  △  ▽

 人生は決して自分だけのためにあるのではなく・・
 幸福は決して自らの夢や願いを叶えることではない。

 ではどこに幸せがあるのだ。
 どこに生きる意味があるのだ。

 幸せは人と人の狭間にあると、遠い過去の私は言った。
 幸せは、そばに居る人との歩み寄りの過程の中にあると昨日の私は言った。

 それはつまり、自らの夢や欲望が実現することが幸せでは無いと、私が思っているということだ。
 けれど、実現までの過程に幸せがあるかというと、やはり違うと感じている。
 結果を出すことが大事なわけでも、結果を出そうとしていることが大事なわけでもない。それはきっと、どちらも、向いているのが「結果」という一点だからだ。

 じゃあ、それが違うなら、どこにあるんだ。
 どっちを向けばいいんだ。

 既に傍にあると、昨日の私は言った。
 じゃあそれはなんなんだ。
 一体、私はどちらを向けばいいのだ。

 誰でもいい、どうか私に指し示して欲しい・・

  --------------------------

 我欲の中に幸せがあるのではないらしい。
 幸せのためには我欲を捨てると言うパラドックスに混乱している。

 つまり・・
 私が欲しいのは、私自身の幸せ。

 私が幸せになりたいだけだ。
 だけどそれだけを願ったのでは私は幸せになれないのだと、痛烈に感じたのだ 

 だから余計に混乱する。
 何を求めたらいいのだ。
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信頼 2005.3.3[Thu]
   
   汝、人を裁くな 人を裁かば己も裁かれ 人を計らば その秤にて己も計られん

 聖書の言葉だったかな。(実はちゃんと思い出せなくて検索した)

  ▽ △ ▽

 不平をもらして他者を責めても、その後で振り返ってみると、「では自分にはそのことは出来ていたのか?」という思いに心焼かれる。相手を責めたこと、言葉や行為で少なからず痛めつけただろうことが、今度は僕の心を痛めつける。

 怒りに我を失い身を任せてしまったがために、あとには気まずさと、いいようもない後悔、自責の念が僕の心を苦しめ続けている。

 裁かず受け入れつつ(許すというのとは多分違う。それではあまりに謙虚さに欠ける)、食い違う思いや、ぶつかり合う願望を、少しずつ歩みより互いに変化しながら、互いに納得できるところまで重ね合わせて行く。それが、裁くことも諦めることもなく、互いの思いを生かす方法なのだろうなあと、今、漠然と考えている。

 言うは易いが本当に出来るのだろうかと思いながら。

  ▽ △ ▽

 信頼とは説明することで納得させることでもなければ、道理で押し通して信じさせるものでもない。日常の生き様から相手に訴えかけていくものであって、どう受け取ってもらえるかは相手方次第といったところなのだろうなあと感じている。
 だから、積み上げて行くのは地道でとても大変だが、崩すのは一瞬で十分だ。だから、ときには二度と修復できないほどのダメージを与え、あっという間に関係そのものを終わらせてしまうことすらある。

 そう。信頼によって、人の心の結びつきは成り立つんだ。

  ▽ △ ▽

 僕は誤解が怖く、拒絶も怖い。
 だから必死になって理解されようとするし、けれど激情に駆られることなく、穏やかに居ようとする。
 ただそれは、僕の生まれついて持っている属性などではなく、努力と忍耐によって、かろうじて保たれているに過ぎない。

 だから、どうしても越えられない溝を感じたときは、誤解を解くことを諦めることもあるし、僕の側から拒絶することだってある。
 でもそれは・・・痛いんだ。ホントはしちゃいけないことだから。

 逆に、自分がそうされている瞬間を想像してしまい、氷で出来た手で心臓をわしづかみにされたのではないかと思うくらい、冷たく苦しいんだ。

  ▽ △ ▽

 そうなんだ。
 人は、自分が拒絶されることを恐れるがあまり、相手を拒絶することだってあるんだ。

 裁かれたくないあまりに、先んじて人を裁くんだ。

 そして、傷つけられたくないがあまりに、先んじて人を傷つけるんだ。

 でもその行為は、そのまま、同じだけの痛みとして自らに返ってくる。

 みんな、疑念の炎で自らの心を焼きながら、疑心暗鬼の暗い世を、ふらふらと独りさまよっている。
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幸せってのは・・ 2005.3.2[Wed]
   
  自分の望みを叶えることではなくてね。
そばに居る人と一緒に、求め迷いながら、作り上げていく過程なんだと思うんだ。

結果にしか価値が見出せない人は、全てか無かの二者択一の世界にしか住めないからさ。

幸せってのは、つかむもんじゃなくて、いつでもすぐ横にあるんだとね。
僕は、思うんだよ。

 ▽  △  ▽

過程といっても、追い求めるという行いに幸せが潜んでいるわけじゃないよ。
努力することが大事だとか、そういうことが言いたいわけでもないんだ。

何かを追い求める過程を、一人で行うのじゃなくて、そばに居る人と一緒にやろうとするということ。ともに力を合わせ、相手を慮り尊重しつつ、人生を縒り合わせて行くこと。

それが幸せなんだと、思うんだ。

互いに背中を預けられる関係。
互いに絶対の信頼を持ち合える関係。

それこそが幸せ。
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