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 2005年04月

2005.4.20[Wed]
   
  行き場ない感情が抑えきれず
かといって叫ぶこともできず

自棄にもなれず

まんじりともせずみじろきひとつせず
ただここに居る
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時間 その1(修正) 2005.4.4[Mon]
   
   私は過去を生きている。
 といっても、過去の記憶に埋没することで現実から逃避しているのでもないし、過去の虚栄にすがることで現在の惨めさをごまかしていると言う意味でもない。

 私は、既に起こった出来事を過去として記憶に留めるのと同時に、未だ起こらぬ将来の事すらも、時系列に並べその終端から逆算するように遡って取るべき行動を定めて事に当たる。それは、私がある出来事について、未来のある時点において期待したとおりの事が実現している状態を仮の現在として想定し、そこから遡った過去のそれぞれの時点(けれども本当の現在から見ればどれも未来である)でどのような行動を取れば、最終的に想定したとおりの未来が得られるかを「逆算」することで、「未来を過去化」しているという意味である。

 私は、本来何が起こるか想像も付かないはずの未来を、記憶に蓄積されている過去の経験と突き合わせ当てはめることで、類似の過去の出来事へと置き換え(=未来を過去化する)、未来を推測している。

  ▽  △  ▽

 人間は記憶を発達させることで、本来過ぎ去り消えてしまって存在しないはずの「過去」を、あたかも現在においても現実のものとして存在するかのように扱えるようになった。さらには、言葉を発達させることで、永い時間を超えてより多くの過去を残すことが出来るようになり、ついには、「未来を推測するための情報」として「過去」を扱うようになっている。そんな風に思う。

 少なくとも、幼い頃の私にとっては、この世界は、次に何が起こるかわからないほどに波乱と不思議に満ちあふれた、まさに「ワンダー」な世界であった。記憶し蓄積しようにも過去そのものがなかった幼い私は、ただひたすらに、「前例のない新たな出来事」として、未来を新鮮に、といえば聞こえは良いが、常に何が起こるか分からない不安定なものとして体験し、そしてそれを鮮明に記憶し続けるしかなかった。
 けれども、日を追い年を経るごとに、過去を蓄積していった。それは、近い将来に起こるかもしれない出来事を予想し、予測するために。
 かくして、認識される未来は、新鮮なものとはならず、単なる「まだ修正可能」な、「未だ来ぬ過去」に成り下がってしまった。

 このような想像の下で、未来と過去の違いは、未来は修正が許されるが、過去は修正が絶対起こりえないというだけのことでしかなくなってしまった。そして、現在は、修正が許されるか許されないかの境目を示す時系列上の一つの点でしかなくなってしまった。

 このような想像を突き詰めていくと、私にとっての究極の終端は「死の瞬間」であり、私が認識できる未来の出来事とは、全てこの「死の瞬間」から見た過去に該当することとなった。これらの積み重ねの究極の結果として、生き物である限り絶対超えられない「壁」=「死の瞬間」から見た過去として、自分の持ちうる有限の(しかしその量は終末を迎えるまで不明の)時間の使いかたを計画し、設計していくだけということになってしまった。

  ▽  △  ▽

 ところで、あたかも存在するかのように考え話している「未来」にしても、実は「まだ来ぬ故に」この世界には存在しない。また同様に、過去もまた「既に来てしまった故に」この世界にはやはり存在していない。
 それなのに、私は、過去・現在・未来の全てを、「予定された過去」として完結するように、全体としてひとつの(仮想的な)線上にあるストリームとして捉えている。

 そして私は、まるで学校専属のカメラマンが卒業アルバムを作るために、完成したアルバムを頭に浮かべながらひたすら撮影するかのように、私はひたすら計画し、行動し続ける。撮影したフィルムが切れたり感光したりして、アルバムは思うように完成しないかもしれないというのに。
 それにたとえ、もし首尾よくそのアルバムが完成しようとも、その完成したアルバムは、私には見ることは出来ないのに。
 そう、完成の瞬間は、私の死なのだから。

 今際のきわには、過去の記憶が走馬灯のように流れるというが、まさにそのために生きているようなものだ。

 だというのに、私は何にしがみついて居るんだろう。
 やはり過去か。過去なのだな。

 
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