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 2006年04月

1年たちますね 2006.4.25[Tue]
   
   ちょうど1年ですね。
 去年はたまたま・・ではなく、必要に迫られて事故直後に現場に居たりしたわけなんですが、やっと冷静に思い返せるようになったかなぁとか思ったりします。

 次々血だらけの人が運び出されるわけで。
 もちろん運ぶ人手が足りないので他人事にはならないわけで。

 毛布に包まれた人が横たわっていて、毛布から足だけが出ていたりするわけですが、血の気が失せてきてついには暗紫色へと変わっていったりもするわけで。

 だからこそ、デリカシーも無くカメラ持って乗り込んで来たブンヤさん達のことは、いまだに許せなかったりします。
 はっきり言って不謹慎以前に邪魔です。

 女性警官にブン投げられても文句言えません。
 (放り投げた女性警官もすごいけどねぇ)

 報道の自由より、生きる権利が先だと思うわけです。
 ペンにかさ着て人を傷つけてはいけない。
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承認 2006.4.17[Mon]
   
   突き詰めると、きっと誰もがみな幸せを望んで生きているに違いないと僕は思うんだけれど、では幸せとはなんなんだろうか。
 幸せとは望まなければ手に入らないものなのか?とか、そもそも幸せなんて望む必要があるのかなんていう捻くれていて、かつ間抜けでもあり滑稽ですらある疑問は(実は非常に重要なのかもしれないがあえて)脇に放つことにして。

  *  *

 見知らぬ街に独り放り出されて当て所なく彷徨う羽目に陥れば、何を求めるだろう。
 無人島にでも放り出されて、独りっきりで生活することを余儀なくされたとして、何を求めるだろう。
 
 もっと極端なことを言えば、海外旅行でもしていたとして、突然、「あなたの祖国は丸ごと消滅してしまいました。残念ですがあなたの帰る場所も、そこに居たはずの人々ももう存在しないのです。」なんてことになれば、何を思うだろう。

 「まあいいや。」とさらりと言い放てる人こそ、幸せなのかもしれないと思う。
 ・・が、それはもはや人ではないように思う。
 属する場所も、積み重ねた過去も、生きてきたという証の全てをf不意に失ったとして、平然といられるだろうか。

  *  *

 そんな状態で何を与えられたら、安堵するだろう?

  *  *
 
 僕なら、無条件に認められ、受け入れられる場所が欲しい。
 別に、特別扱いなんていらない。他の皆と同じで良いから、くさされることもなじられることも無く、公然と生かされる場所と、我という存在を腹の底から肯定してくれる仲間があれば、他には何もいらない。

 それを幸せという言葉で表すべきものなのかは、僕にはわからない。
 しかし、それを全く持ち合わせていない人間が居たとしたら、その人間はとことんまで不幸に違いないと思う。

 少なくとも僕は、群れの中でしか生きられないし、群れの中の承認されたメンバーでなければ生きていけない。
 きっとそれは僕だけではないはずだ。

 承認。
 この世の中から日々失われつつあるものなんじゃないかなんて思う。
 「俺が俺が」とばかり皆が言い募るうちに、結局みな、自分で一人ぼっちになっていっているような気がして仕方が無い。

 我侭は、一人ぼっちへの片道切符だ。きっと。
 皆に、寛容が足りない。
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宝くじの話(笑) 2006.4.4[Tue]
   
   全ての行為は、期待通りの結末を迎えないかもしれない。いや、むしろ、行為の結果は、ほとんどの場合、まず期待通りにならないと思っておいたほうがいい。
 だから、目的をもって行動を起こすときは、常にその覚悟を持っておかなければならないんだろう。

 では、期待はずれの結果は、無意味なのだろうか?
 そんなギャンブルめいたこの世における、全ての行為は無意味なのだろうか?

 そうであるともいえるし、そうでないともいえる。
 のかな?なんて思う。

 成果主義者?にとっては、報われない未来なんてないに等しいのかもしれない。

 けれど、不確定に満ちたこの世界にいるというのに、まるで全ての出来事が理路整然とした法則に基づいて動いているかのように、まず結果ありきで始まる前提を持っていることそのものに問題があるように、僕は思う。

 *  *

 みんな誰もが、「誰かに吹き込まれた」世の道理と、今まで生きてきた経験とをつき合わせて、とりあえず上手くいくだろうという「仮定」に基づいて行動し、生きてるんじゃないのか?

 過去における全ての出来事は、結果論でしか語れないし、逆に、未来に対する予測や予想は全て、「仮定」によってしか語れない。
 仮定を設定するのは自分の責任だし、そのために仮定の妥当性を評価するのも自らの責任だ。
 その妥当性の評価についての選択こそが、僕らに与えられた「自由」なんだと、僕は感じてたりする。

 結果を引き起こす「原因」は、必ずしも僕のせいではないかもしれない。だけど、最後に訪れる結果を受け止める責任が、僕にはある。

 同じく各々皆にもある。と、思う。

  *  *

 「結果はどうあれ受け止める」というのが「生きる」ということとほぼ等しいのだと思うし、そのためには、常識や先入観などといった目くらましに目を曇らされず、自分の目と頭で決断するしかない。
 でなきゃ、いつも誰かのせいにしながら生きていかなきゃいけなくなる。

 ところで、責任をなすりつける相手が見つからなくなったときに、自分であって自分でない、もう一人の自分を用意して、こいつを攻撃する羽目に陥る人が、たまにいる。
 過剰な自責や自己批判なんてのがこれ。
 反省も、過ぎるとかえって害になる。

  *  *

 結局、買わない宝くじは当たらないのだ。
 でもって、どの宝くじを買うかの選択くらいはできるかな?くらいのもの。
 人生なんてそんなもの。

 当たらなくったって、充分生きていける。
 当たらなかったのは、誰のせい?
 おてんとさんに唾棄いても、顔にかかるだけなんだから。(笑)
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